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【亀之物語】 第一章 -不易流行-

「不易流行」という言葉の意味を調べると「絶対に変わらない部分を忘れず、かつ新しく変化するものを取り入れる」、もしくは「不易と流行という対立した概念を対立させたまま両立させる」とあります。振り返れば大正八(一九一九)年、私(亀田憲明)の祖父・亀田富太郎が高木瓣染工場から〝のれんわけ〟してもらって染め屋を始めたとき、孫の代で創業百周年を迎えることなど、おそらく想像すらしていなかったと思います。
 

そんな祖父は昭和十四(一九三九)年、四十七歳の若さで亡くなり、私は会ったことがありません。また、私の父・亀田富三が二代目を継ぐまでは、その母親(私の祖母)が戦時下に七人の子を抱え、家中に売るものがなくなるほどの貧乏をしつつ染め屋を守り抜きました。その後、復員した富三は母(私の祖母)と共に昭和二十四(一九四九)年に株式会社亀田富染工場を設立するのですが、戦後間もない頃、祖母は真紅の地色に柄を配した染め見本をつくり、同業者から「こんな時代になんちゅうもんをつくるんや」と笑われたそうです。ところが、その派手な染め見本が大ヒットし、大量の注文が舞い込んだのだから商売はわかりません。そのとき祖母は「戦争に負けて世の中が暗いからこそ人は明るい色を求めるんや」と言っていたそうです。

 

そんな祖母に私も幼い頃から商売の〝いろは〟を叩き込まれました。覚えている教えは少なくないですが、「商家の者は早起きし、仕事で最も大切な段取りをする」、「勤め人に毎朝〝おはよう〟と元気にあいさつする」、「おはようございますと返答した勤め人の声の調子や顔色から体調を気づかう」等々は家訓になっている感もあります。さらに「商家の者は勤め人が嫌がることを率先してやる」という教えもあり、大量に水を使う染め屋では下水が詰まることも多々あるのですが、そんなとき祖母は着物の裾をまくりあげ、素手で汚物を掻き出していました。まったく、驚くほど〝働きもん〟だった祖母でしたから、亡くなる三日前まで皆に隠れ、朝五時から生地についた糸くずをとるなど、仕事の段取りをし続けていました。おかげで今も判断が迫られたとき、「おばあちゃんならどうするやろ」と考えたりしています。
 
二代目の父・富三は型を使った写し染めが主流だった当時、いち早く機械捺染を導入するというアイデアマンでした。また、着物をほどいて反物の状態に戻す「ときはぬい」に着目、それを漆黒に染めてから樹脂と顔料で機械捺染することを考案したのも父でした。しかもその手法はメガトン級のヒットとなり、瞬く間に会社は急成長していきました。その結果、まだ私たちが子どもだった頃、父は次々とビルを建てました。昭和四十六(一九七一)年にはシルクスクリーンで着物を染めるという当時は画期的な工場を五条通りに面して建てました(今の本社です)。そのとき高校生だった私は工場によく呼ばれ、雑用などをしながら、染料や色合わせなどの勉強をさせられていました。
 


また、兄の和明(現・会長)が今も暮らす若宮高辻の生家は工場と隣接しており、以前は住み込みの職人さんやお手伝いさんもいて、そこに祖母、叔父、父母、従業員も一〇〇人ほどいて、喧騒の絶えない日常でした。もちろん家中の会話は仕事のことのみ。食事のときも子どもたちは台所の隅で小さくなり、慌ただしく食べていました。こうした子ども時代、私たち兄弟は祖母と父から、冒頭に述べた「不易流行」を学んでいたような気がしてなりません。まぁそう言うと・・・・・・なのですが、実は二人はとても不仲で、祖母は昔ながらの染め屋に、父は新しい時代の染め屋に、それぞれ固執するあまり、日々怒鳴りあっていたのです。それはまさに、対立するもの(者)が対立したまま両立している状況に他なく、私たち兄弟は「これもありなんだ」と学ぶと共に、「なんでもあり」の自由な発想ができるようになったのです。しかし昭和五十(一九七五)年には祖母が、同五十九(一九八四)年には父が亡くなるのですが、着物業界の衰退は激しく、会社の業績も雲行き怪しく、従業員数は半減していました。


そんな亀富を三十四年前、兄が受け継ぐわけですが、皆さんご存知のとおり、彼は〝宇宙人〟でした(笑)。思いつく限り、いろんなことに挑戦しては失敗し、また挑戦しても失敗し、そんなことを繰り返し、最後の挑戦としてつくった一枚のアロハシャツが、〝あたった〟のです。ところが仰天の四年前、宇宙人は「お前が社長をやれ」と言い、経営の一切合切を私に任せ、彼は会長になりました。そうして迎えた二〇一九年、亀富は創業百周年を数えることになり、仲良しだけど宇宙人と常識人という私たち兄弟は、今後も「不易流行」の関係を続けていくのでしょう。