京都亀田富染工場から生まれる伝統着物柄アロハシャツ
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アロハシャツといえば、ハワイをイメージする方が多いと思います。 アロハシャツの起源については諸説ありますが、20世紀初頭にハワイへ移住した日本人がアロハシャツの原型となるシャツを着ていたとされています。当時ハワイに移民した日本人の多くはサトウキビ畑や製糖工場の労働者で1902年にはサトウキビ畑労働者の約70%が日本人だったとされています。当時のハワイでは「パラカ」と呼ばれているシャツを好んで着る人が多く、日本の木綿絣に似ているため日本人労働者も好んで着ていました。貧しかった日本人の中には持参品であった着物をリメイクして「パラカ」風のシャツに仕立てたり、子ども用のシャツを仕立て、それが現地の人の目に入る事で広まり、アロハシャツのルーツになったと言われています。
アロハシャツが文化として発展していく過程で外せないキーワードのひとつが「ムサシヤ・ショーテン」です。1904年に日本の反物を使用したシャツを生産する会社として創業し、1935年に「アロハシャツ」という言葉を広告に使用した記録が残っています。また「エラリー・J・チャン」という人物が1937年に「アロハシャツ」を商標登録し、20年間の独占利用を認められた時代もありました。その間他のメーカーは「アロハシャツ」という文言が使えなかったため、一般名詞である「ハワイアンシャツ」を用いていました。そのため、アロハシャツとハワイアンシャツという呼称が現在でも混在していますが、2つは同じものなのです。どちらの呼び方が正しいといった事はありませんが、商標の期限から50年以上経った現在はアロハシャツという呼称が広く一般的に使われいます。しかし一般名詞であるハワイアンシャツが正しいという考え方があるのも事実です。
アロハシャツは時代により変化を続け、シルク生地から始まり、1950年代まではレーヨン、1960年代にはポリエステルと柄だけなく時代背景に合わせ主流となる素材も変化していきます。その中でも当時のレーヨン製のアロハシャツはヴィンテージとして非常に評価が高く、現代でも精巧に復刻された商品が販売されるほどです。レーヨンは爽やかな着心地だけでなく、人絹とも呼ばれるように発色の美しさも特徴の一つで、レーヨンの登場によりアロハシャツの独創的なテキスタイルと鮮やかな配色は更に進化していったのです。
しかし、当時のハワイにはアロハシャツに使われる生地を染色する工場は無く、日本で染められた生地も輸入されていました。その中でもPagongがある京都は有名な産地で第二次大戦前後を通して盛んに生産されていたようで、アロハシャツはその起源にも生産にも日本人が深く関わっていたことが窺えます。
そんなアロハシャツはハワイが観光地となっていく過程で広まり、当時のスーパースターであったエルヴィス・プレスリーの影響もあり、1950年代に最盛期を迎えます。ハワイにおいてアロハシャツの生産は砂糖やパイナップルに次ぐ大きな産業となったのです。1960年代に登場したポリエステルはお手入れも簡単で丈夫なこともあり、ポリエステル生地を使用したアロハシャツは加速度的に我々の生活の中に溶け込んでいくことになります。現代ではアロハシャツは世界中の人々の普段着としても愛用され、日本では独自の進化をした「かりゆしウェア」といったものも登場しています。また、昨今はファッショシーンでの大きなトレンドの一つとなっており、ビッグメゾンやファストファッションブランド問わず様々なブランドからアロハシャツがリリースされており、ファッショニスタの間でも高感度のアイテムとして受け入れられています。
Pagongのアロハシャツは自社の蔵に眠っていた数千もの素晴らしい図案を、もっと世の中の人々に見ていただきという思いで生まれました。当時のアロハシャツと同じように手捺染という技法で染めた生地を使用しおり、染めに使用している型は全て京友禅の伝統工芸師 谷口尚之氏によるもの。「京友禅のきもの」で培った感性で生まれ変わった図案の数々は、他にも様々な職人達の手を経てアロハシャツに仕上がります。
Pagongには自社の染工場があり、日々友禅染職人が柄を染め上げています。一見単純作業の繰り返しのように見えますが、植物の葉脈などの繊細な部分はボカシという技法で表現されており、そのボカシを忠実に再現するには均等な力で最初から最後まで染めなければならず、型のズレに注意を払いつつ生地によっても力加減を都度変更していかなければならない、繊細さと根気が常に必要とされる作業なのです。そうして染め上げられた生地は、その後、「蒸し・洗い・乾燥」という工程を経て反物となり、アロハシャツへと仕立てられるのです。
近年では複数の美術館様とのコラボレーションも実現しており、葛飾北斎や伊藤若冲といった日本を代表する絵師達の作品を使用したアロハシャツも誕生しております。京都の地から新たなアロハシャツの歴史を紡いでいけるよう、これからも精進してまいります。
アロハシャツのルーツとPagong
アロハシャツの起源
アロハシャツといえば、ハワイをイメージする方が多いと思います。
アロハシャツの起源については諸説ありますが、20世紀初頭にハワイへ移住した日本人がアロハシャツの原型となるシャツを着ていたとされています。当時ハワイに移民した日本人の多くはサトウキビ畑や製糖工場の労働者で1902年にはサトウキビ畑労働者の約70%が日本人だったとされています。当時のハワイでは「パラカ」と呼ばれているシャツを好んで着る人が多く、日本の木綿絣に似ているため日本人労働者も好んで着ていました。貧しかった日本人の中には持参品であった着物をリメイクして「パラカ」風のシャツに仕立てたり、子ども用のシャツを仕立て、それが現地の人の目に入る事で広まり、アロハシャツのルーツになったと言われています。
アロハシャツとハワイアンシャツ
アロハシャツが文化として発展していく過程で外せないキーワードのひとつが「ムサシヤ・ショーテン」です。1904年に日本の反物を使用したシャツを生産する会社として創業し、1935年に「アロハシャツ」という言葉を広告に使用した記録が残っています。また「エラリー・J・チャン」という人物が1937年に「アロハシャツ」を商標登録し、20年間の独占利用を認められた時代もありました。その間他のメーカーは「アロハシャツ」という文言が使えなかったため、一般名詞である「ハワイアンシャツ」を用いていました。そのため、アロハシャツとハワイアンシャツという呼称が現在でも混在していますが、2つは同じものなのです。どちらの呼び方が正しいといった事はありませんが、商標の期限から50年以上経った現在はアロハシャツという呼称が広く一般的に使われいます。しかし一般名詞であるハワイアンシャツが正しいという考え方があるのも事実です。
時代の変化と共に
アロハシャツは時代により変化を続け、シルク生地から始まり、1950年代まではレーヨン、1960年代にはポリエステルと柄だけなく時代背景に合わせ主流となる素材も変化していきます。その中でも当時のレーヨン製のアロハシャツはヴィンテージとして非常に評価が高く、現代でも精巧に復刻された商品が販売されるほどです。レーヨンは爽やかな着心地だけでなく、人絹とも呼ばれるように発色の美しさも特徴の一つで、レーヨンの登場によりアロハシャツの独創的なテキスタイルと鮮やかな配色は更に進化していったのです。
しかし、当時のハワイにはアロハシャツに使われる生地を染色する工場は無く、日本で染められた生地も輸入されていました。その中でもPagongがある京都は有名な産地で第二次大戦前後を通して盛んに生産されていたようで、アロハシャツはその起源にも生産にも日本人が深く関わっていたことが窺えます。
そんなアロハシャツはハワイが観光地となっていく過程で広まり、当時のスーパースターであったエルヴィス・プレスリーの影響もあり、1950年代に最盛期を迎えます。ハワイにおいてアロハシャツの生産は砂糖やパイナップルに次ぐ大きな産業となったのです。1960年代に登場したポリエステルはお手入れも簡単で丈夫なこともあり、ポリエステル生地を使用したアロハシャツは加速度的に我々の生活の中に溶け込んでいくことになります。現代ではアロハシャツは世界中の人々の普段着としても愛用され、日本では独自の進化をした「かりゆしウェア」といったものも登場しています。また、昨今はファッショシーンでの大きなトレンドの一つとなっており、ビッグメゾンやファストファッションブランド問わず様々なブランドからアロハシャツがリリースされており、ファッショニスタの間でも高感度のアイテムとして受け入れられています。
Pagongとアロハシャツ
Pagongのアロハシャツは自社の蔵に眠っていた数千もの素晴らしい図案を、もっと世の中の人々に見ていただきという思いで生まれました。当時のアロハシャツと同じように手捺染という技法で染めた生地を使用しおり、染めに使用している型は全て京友禅の伝統工芸師 谷口尚之氏によるもの。「京友禅のきもの」で培った感性で生まれ変わった図案の数々は、他にも様々な職人達の手を経てアロハシャツに仕上がります。
Pagongには自社の染工場があり、日々友禅染職人が柄を染め上げています。一見単純作業の繰り返しのように見えますが、植物の葉脈などの繊細な部分はボカシという技法で表現されており、そのボカシを忠実に再現するには均等な力で最初から最後まで染めなければならず、型のズレに注意を払いつつ生地によっても力加減を都度変更していかなければならない、繊細さと根気が常に必要とされる作業なのです。そうして染め上げられた生地は、その後、「蒸し・洗い・乾燥」という工程を経て反物となり、アロハシャツへと仕立てられるのです。
近年では複数の美術館様とのコラボレーションも実現しており、葛飾北斎や伊藤若冲といった日本を代表する絵師達の作品を使用したアロハシャツも誕生しております。京都の地から新たなアロハシャツの歴史を紡いでいけるよう、これからも精進してまいります。