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額波
額波

彫り物の歴史
現代では刺青・タトゥー・入れ墨といわれている「彫り物」といい、その中でも日本の伝統的な彫り物のスタイルを「和彫り」といいます。
日本での彫り物の歴史は縄文時代から行われていたという説もあります。
弥生時代の文献『魏志倭人伝』によると、「男子無大小、皆黥面文身」(男子は大小と無く、皆鯨面(顔に刺青を入れる)文身(体に刺青を入れる)す)と記述されていることから弥生時代には顔や体に彫り物をしていたといわれており、古くから日本の文化・慣習に根付いていたといわれます。

江戸時代ではファッションとして彫り物が流行します。特に肌を露出することが多かった仕事に従事する男性に好まれました。町内の警備役や火消し衆、飛脚、大工などです。勇気や男気を誇示するため、豪華絢爛な彫り物を施しました。
着物をまとわない方が動きやすいが肌をさらすのは恥ずかしかったので彫り物をするようになったのではないかという説もありますが、彫り物の流行を加速させる要因の一つに中国から伝わった人気小説『水滸伝』の影響もあるのではないかといわれています。

23.九紋龍史進(上), 72.跳澗虎陳達(下)

歌川国芳
23.九紋龍史進(上),
72.跳澗虎陳達(下)

68.出洞蛟童威

歌川国芳
68.出洞蛟童威

108.金毛犬段景住

歌川国芳
108.金毛犬段景住

30.浪裏白跳張順

歌川国芳 30.浪裏白跳張順
Wikipediaより

『水滸伝』は中国の明の時代に書かれた長編小説で、「三国志演義」「西遊記」「金瓶梅」とともに四大奇書のひとつに数えられています。
日本では江戸時代中期に岡島冠山が翻訳した『通俗忠義水滸伝』をもとに多くの翻訳本が生み出され、その後より読みやすい挿絵入りの読本が出版されるなどして、次第に読者層を拡大していきます。
江戸時代後期には歌川国芳や葛飾北斎などの浮世絵師が挿絵を描いています。
歌川国芳の錦絵シリーズ『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)(つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり)』や葛飾北斎が挿絵を描いた『新編水滸画伝』など、全身に色鮮やかな彫り物を施した姿で描かれるヒーローたちは当時の若い男性たちの憧れとなり、江戸時代後期の大衆文化における水滸伝ブームが男性たちの粋として彫り物の流行に大きく影響していると思われます。

明治時代に入り、彫り物は反社会的な存在と認識され、禁止令が発布されました。そのような中でも江戸時代からの粋な男性たちの間で影を潜めながらもこの文化は廃れることはありませんでした。第二次世界大戦が終結するまでこの文化は受け継がれ、現代では普通の人々の嗜みとして若者を中心に和彫りの伝統は受け継がれています。

額彫り
「額彫り」とは、主題となる絵柄を引き立てるような背景を施す技法です。例えば地上に見立てて岩・波・水の流れ等をイメージしたものや、空に見立てて雲・雷・渦などをイメージしたものなどを、主題となる絵柄に合わせてデザインします。
図柄の周囲を墨や色のボカシで額縁の様に囲んでデザインし上手く組み合わせることで、全体に統一感を出しつつ絵柄を引き立たせて仕上げます。

今回登場した「額波」の柄は京都祇園のTATTOOスタジオ「祇園だるま」との共作図柄です。日本の彫り師特有の力強い波模様を友禅型に起こしました。