江戸時代後期の浮世絵師 葛飾北斎
江戸の浮世絵師、葛飾北斎は90年の生涯で、代表作の「冨嶽三十六景」『北斎漫画』をはじめ、多くの錦絵・絵手本・肉筆画などを制作しました。
ヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えたとして世界における評価も高く、1998年にはアメリカの雑誌『ライフ』で「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」として、日本人でただ1人選ばれました。
様々な奇行の記録が残っている葛飾北斎ですが、彼は生涯に30回以上改号しています。
使用した号は「春朗」「宗理」「北斎」「辰斎」「百琳」「雷斗」「画狂人」「雷辰」「画狂老人」「卍」などがあげられます。
現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した北辰妙見信仰にちなんでいるといわれています。
また北斎の93回という引っ越しの多さも有名な話です。一説によると北斎と助手をしていた娘のお栄が絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりすると引っ越しをするという生活を続けていたからともいわれています。
1842年 北斎は83歳の頃に初めて信州小布施を訪れます。そのきっかけは幕府の天保改革で江戸には居づらかったとも、地元の豪商・高井鴻山の招きに応じて訪れたとも、さまざまな説があります。小布施では、高井鴻山の庇護を受け、アトリエというべき碧漪軒(へきいけん)を与えられました。
二人の関係は「先生」「旦那様」と呼ぶほど親密なものでした。非常に恵まれた環境の中で、晩年を迎えた北斎は小布施で肉筆画の大作に挑みます。
そして86歳の時に高井鴻山からの依頼で祭屋台の天井絵の四面「龍図」「鳳凰図」「男浪」「女浪」を手がけました。さらに、高井家の暮提寺である岩松院本堂の天井画「八方睨み鳳凰図」を手がけます。完成したのは89歳の時といわれます。
こうして、晩年の大仕事を終えた北斎は江戸に戻ったのちの90歳の年に「富士越龍」を描きました。
Wikipediaより
File:Hokusai-fuji-koryuu.png
「富士越龍」
北斎晩年の肉筆画の代表作の一つである「富士越龍」は北斎が亡くなる年の正月に描かれた作品です。
作品の落款には、嘉永二己酉年正月辰ノ日 宝暦十庚辰年出生 九十老人卍筆 と記されています。嘉永二己酉年正月、つまり嘉永2年(1849年)の正月、この作品を描いたときの北斎は90歳になる年ということが落款からわかります。北斎が亡くなる3ヶ月ほど前に描いた肉筆画で、「富士越龍」は北斎の絶筆となる作品か、あるいはそれに極めて近い制作になるものとして注目されています。北斎の一生をたどる中でも欠かせない作品です。
雪の積もる富士山の向こう側を、黒煙のような雲をつたって龍が天に飛翔していく姿が描かれています。
富士の三角を前方に配した独特な表現は幾何学構図を好んで使った北斎らしい構図です。その富士の背後にうねり立つ黒雲の中に描かれる龍は小さいながらも精密に描きこまれています。
「富士越龍」は晩年の北斎自身の心境を投影した作品であるとされています。
Wikipediaより
File:Hugaku100kei batsubun.jpg
北斎75歳のとき『富嶽百景』初編の跋文には、これまでの画家としての半生とこれからの決意が語られています。
「73歳になってようやく虫や生き物、草木のつくりをいくらか知ることができた。だから86歳になればますます腕は上がり、90歳になれば一層奥義を極め、100歳になれば神妙の域に達し、110歳ともなれば、あらゆるものを生きているように描けるだろう」というものです。
また89歳のとき、『画本彩色通』の序文ではこのように語りました。
「90歳より画風を改め、100歳を過ぎてからは此の道を改革することのみを願う。長寿の君子よ、私の言葉が真であることを知ってほしい。」
北斎は100歳を超えた先の人生を考え真の画家を目指し続けました。
北斎が90歳になる年の作品である「富士越龍」に描かれる龍は蛇行しながらも力強く天へと昇っていきます。
目指すべき頂点に向けて、もがきつつも進む龍はきっと北斎そのものなのでしょう。
この「富士越龍」を描いた約3か月後に北斎は自身を「未熟な画家」と認識したまま「あと、10年、いや5年生きられたなら、本物の画家になれたものを…」という言葉を残して、亡くなりました。
「富士越龍」は北斎の最晩年に描かれた貴重な肉筆画であり、北斎の衰えることのない画力を感じることができる作品です。今回、信州小布施 北斎館の協力のもとPagongにてアレンジを加えて友禅染で復刻しました。
富士越龍の画像は、デジタル北斎プロジェクトの一環として、NTT ArtTechonogy とアルステクネによる超高解像度画像を、北斎館より提供いただきました。